千住宿は、江戸四宿の一つで、日本橋から二里八町(8.7km)草加宿へ二里八町(8.7km) 
五街道 奥州日光街道の最初の宿場町で江戸四宿のなかでは、人口が最大であった。

千住の開発は古く戦国期以前にさかのぼり、宿として成立した慶長2年(1597年)には既に千住大橋が架けられていた。
その後、千住宿は新田の開発によって更なる用地拡充が図られ、慶長6年(1601年)に始まった徳川家康の街道整備事業で
幕府の統治下に入り、三代将軍家光の頃の寛永2年(1625年)に日光街道の初宿に指定された。






「千住」の地名については、本陣跡付近の勝専寺の寺伝に、「開基兵部政勝が父なる新井図書政次は
鎌倉頼朝公に仕え居たりしが、
建仁元年所領を捨てて、当所に蟄居せしものなりと云ひ伝ふ。
政次一日荒川の辺に至て戯れに網を打ちしが、網水底深く沈みて容易に上らず、
強いてこれを引くに、千手観音の像一網にかかりたまヘリ。
政次且つ驚き且つ喜び、奉じ帰りて家に安置し、供養信仰す。
後ち政勝に至って、当寺に移安し奉りしものなり。自来この土地を呼んで千手と称へしものなるが、
千住と名づけたるはその後ちのことなり」とあり、千手観音に由来することが書かれているが、他にも、
この地が平安時代のころ「千寿村」といわれたことや、足利将軍義政の愛妾千寿の出生地であること、
千葉氏が住んでいたことなどが由来として伝えられている。





鎌倉時代 平家を倒した源頼朝が鎌倉に 武家政治の基礎をつくったとき 
奥州方面の防備として千住の地に関所を作らせた。
この辺は風光明媚であったために 江戸時代には文人墨客が多く遊び詩歌を残している。
鎌倉時代の千住宿は和田の宿といい、今の関屋町付近 葛飾北斎の「関屋の里」は
この辺を描いたものです。

家康が江戸にきて4年目 文禄3年1594年 初代関東郡代伊奈忠次(いなただつぐ)により、
千住大橋が架けられています。
この大橋を起点として奥州街道は江戸五街道の一つとして重要な交通路になりました。
千住は人馬の継場村となり、人家もふえ、1598(慶長三)年に石出掃部亮吉胤(いしでかもんのすけよしたね)が、
本木から千住仲町にきて開拓し、
荒川に水除提を築き(掃部提)、1617(元和3)年掃部新田を開いた。

寛永元年(1624)三代将軍家光によって、日光に東照宮が建立され、翌2年に、
日光道中の初宿として千住宿が指定された。
それ以後は多くの大名が日光参脂の道中ここに泊まり、また参勤交代が制定されてされてからは
さらに大名の往来が激しくなり、宿場町としてめざましい発展をとげた。 
この宿場とは、元来一般旅行者の便利を考えたっものではなく、大名たちの旅行のために
宿泊施設や荷物輸送の人や馬を提供するための駅であった。
したがってなにごとも 公家・武士階級に優先で しかも経費の負担が軽くすむように宿賃は一般の半額以下であったし、
宿場で用意した人や馬が不足のときは助郷や加助郷で付近の農家から無賃で借り出した。






東海道品川宿、中山道板橋宿、甲州街道内藤新宿と並んで江戸四宿の1つに数えられた千住宿は、
当初、千住一丁目から五丁目が宿として機能していたが、万治元年(1658年)に掃部宿・川原町・橋戸町
(現在の千住仲町・千住河原町・橋戸町)が、万治3年(1660年)に現在の荒川区小塚原町・中村町が千住宿に加わり、
これらを総じて千住宿と称した。
天保15年(1844年)の「日光道中宿村大概帳」には、その規模が「宿内町並 南北三十二町一九間、
人別九千五百五十六人、家数二千三百七十軒、
本陣一、脇本陣一、旅籠五十五軒」と記されている。

南北1km余りの一丁目から五丁目一帯は、千住宿として最も早くから機能したことから宿の行政や宿泊地の中心として発展した。
一丁目の南詰近くに「千住宿 問屋場 貫目改所跡」の標柱がある。
問屋場(といやば)は宿の事務担当機関として街道を往来する旅人のために駕籠や人馬の継立などを行ったところで、
足立信金本店と旧区役所の敷地がその跡地にあたる。
その向かい側に飛脚宿と馬寄場が設置され、北側の貫目改所では、幕府が規定する荷重量についての検査が執り行われた。
三丁目の「千住宿本陣跡」の標柱が建つところは、大名や幕府役人、日光を往復する門跡などが宿泊した施設跡で、
広さは、標柱のところから西は千寿本町小学校前の通りまでを占め、面積は約361坪、建坪120坪であったと記録されている。
四丁目に、宿場町風情を今に伝える二軒の旧家がある。
一軒は、江戸中期から代々、絵馬や行灯、凧を描いてきた際物問屋の絵馬屋・吉田家で、
もう一軒は江戸時代から続いた紙問屋「松屋」の横山家である。
横山家の家屋は江戸時代後期の建築とされ、玄関の柱に残っている傷跡は官軍と戦った彰義隊が刀で斬りつけたものという。
旧道を取り囲むように軒を連ねる現代風建築物の中にあって、威風、あたりを払うかのように佇む江戸の遺構は、
今後も、宿場町のシンボルとして永く保存されることになるのだろう。
千住大橋を渡って千住宿に入るとその橋の袂に「奥の細道矢立初の碑」がある。
(芭蕉の「おくのほそ道」の旅が千住から始まったことを記念して建てられた)
右手に魚市場(魚河岸)、足立市場が見える。4号線と分かれる市場前の旧道が日光街道だ。
千住は(日光・奥州街道)品川(東海道)板橋(中山道)新宿(甲州街道)と並び江戸四宿の1つとして数えられ、
市中に近く遊興地としても大いに賑わった宿場であった。